払わなくていいチップを払ったら幸せな気分になった話

仕事の都合で、茨城から東京に引っ越すことになった。
親しい友人や、仲の良い同僚との別れは悲しいけど、一番残念なのは、数々のおいしくてリーズナブルなお店に行けなくなってしまうこと。
僕が住んでいる地域はとても飲食店が充実していて、フレンチ、イタリアン、中華などスタンダードな料理は言うに及ばず、ものすごく香りのいいコーヒーを出すカフェや、てんぷらまでおどろくほどおいしい蕎麦屋さん、もっちもちの石窯ピザに、インドカレーやタイ料理と、バリエーション豊かでおいしいお店が数多くあり、外食大好きな僕ら夫婦は大満足だったのだ。
特に一番の心残りは、キッチン1人、ホールが1〜2人の、小さな洋食屋さん。奥久慈卵のオムライスや、日立牛のシチュー・ハンバーグがおいしいお店なのだけど、料理以上にホールのお姉さんの接客が圧倒的にすばらしいお店だ。
もう、笑顔が服を着て、幸せを配って歩いているようなお姉さんが、ホールを担当していて、おかげで大学に合格しました! 就職が決まりました! メダルが取れたのはあなたのおかげです! と報告があってもおどろかないほど。料理が揃ったあとの「ごゆっくりどうぞ」の一言は、引きこもりの心も一瞬で溶かすといわれる。
お姉さんは、接客そのものもレベルが高く、注文を取りに来るタイミング、水などのおかわりを確認するタイミングが、どんなに忙しくても完璧で、何かのミスをしたところも一度も見たことがない。それどころか、他のスタッフのミスに、客より先に気づき、フォローに入ることすらあるほど。
一度、妻が「食べきれないから、持ち帰って明日の昼に食べられたらいいんだけどなー」とつぶやいたとき、会計しようとしたら「お持ち帰りになりますか?」と聞かれておどろいたこともあった。お姉さんは、別のテーブルの対応をしながら、僕らの会話も聞いて、必要な対応をしてくれたのだ。
最近では、「いつもありがとうございます」と言ってくれるようになって、正直、圧倒的なサービスに惚れ込んでいた僕は、たまの休みに自分一人でもランチに行くくらいだった。

気持ちをチップで

そんなお姉さんとお別れになる前に、これまで受けたサービスに対して、感謝の気持ちを伝えたいと考えて、思いついたのが、チップだった。
海外はチップの習慣がある国が多く、サービスが気に入ったときは多めに払ってもよいことになっている。日本にはチップの習慣がないので、一切払わないのが通例だが、払っていけないということはない。サービスが気に入ったとき、海外で多めにチップを支払うように、日本で本来払わなくていいチップを払うことで、お姉さんに感謝の気持ちを伝えることにした。

いざ当日

3月27日(金)、引越しを明日にひかえた、茨城最後のディナーで、そのお店を訪れた。
僕は特製のハンバーグ、妻はドリアとスパゲティのセット、そして定番のフレッシュジュースをオーダー。
食事に満足し、会計をすませた後、いざ作戦を決行した。
「すみません、ひとつお願いがあるんですが」
「? はい。」
いつもニコニコのお姉さんも、さすがに少し怪訝な顔である。それはそうだ、食事中に「すみませーん」と店員を呼びつける客はいても、会計が終わってから「すみませーん」と呼びつける客はいない。だって、食事も会計も終わっているのだ。
「実は、明日で茨城から東京に引越して、こちらに来られる機会がなくなってしまうので、最後にチップをお渡ししたいのですが、構わないでしょうか?」
「それは…、マスターに確認しないと…」
なるほど。チップをもらうことがお店の損害になるということはないだろうが、イレギュラーなことだし、何よりお金のやり取りである。雇い主に確認をとるのが確実だろう。お姉さん、賢い&慎重だ。
「マスター、こちら、ずっと通ってくださっていたお客様なんですが…」
「すみません、明日で東京に引っ越してしまうので、最後に、彼女にこれまでの分をまとめてチップを渡したいんですが、構いませんか?」
「はい、構わないですよ!」
マスターはやい! ありがとうございます、と承諾のお礼を言って、いざ、財布からお金を取り出す。
福沢諭吉の印刷されたお札を1枚、彼女の手の上に置いた。
「…」
お姉さん、フリーズ。
「えーっ!!」
レジの少し奥で、ことの成り行きを見守っていた、別のお姉様が先に声をあげた。えーすごいどうしたのなんで、と続く言葉を飲み込みながら、顔をのぞかせてくる。
テンション高いお姉様から派手な反応を頂けたのはありがたいけど、かんじんのお姉さんはフリーズしたままだ。ちょっと金額が大きかっただろうか。心配なのは、受け取りを断られてしまうことなのだけど、マスターが一度了承の返事をした以上、彼女が断りを入れるとは考えにくい気がする。とはいえ、我に返る前に先手を打つに越したことはないか。
そう考え、帰るそぶりを見せると、彼女もようやく顔を上げ、テンション高いお姉様と声を合わせて、
「「ありがとうございました!」」
笑顔でお礼を言ってくれた。
ごちそうさまでした、と最後にお礼を返し、満足してお店を出た。
 
一万円という金額は、彼女にとってたかだか2〜3日のバイト代に過ぎないかもしれない。でもこれは、ただのお金ではない。お金という形をとった、評価なのだ。僕が今までこのお店に払ったお金の総額から計算すると、彼女が受け取ったチップの額は、相場のおよそ数倍だ。つまり、彼女には「あなたは本来の何倍ものサービスをしてくれました」という評価が、与えられたということなのだ。
彼女はこの後、マスターや他の店員から「すごいね!」と褒められるだろうか、「どうしたの!?」と質問攻めにあうだろうか。家族や彼氏に「今日バイトでね…」と話したり、友人に「この間バイトでね…」と話をしたりして、幸せな気持ちになってくれるだろうか。今日、自分の仕事がこれだけ評価されたということを、この先なにかの折に思い出してくれることがあるだろうか。
 
店の外では、車に乗らず、妻が外に立ったまま会計を待ってくれていた。
「遅かったね。どうしたの?」
「今日で最後だから、って話をしてたんだ」
「わざわざ? うーん、でもそういうの大事かもね」
「いきなりお店に来なくなって、「来てくれなくなった」って思われたら嫌だったからね。まあ、気づかないとは思うけど、いちおうね。」
「そっか。東京でも素敵なお店が見つかるといいね」
うん、東京でも素敵なお店を見つけたいね。